ドイツ歴史学派の沿革 - 旧歴史学派
リストの晩年(1834年)、彼の悲願であったドイツ関税同盟が成立して以降、官僚層による上からの資本主義化が進められ、三月革命後にブルジョワジーが台頭するようになった。またこれと並行して、プロイセンを中心とするドイツの政治的統一が進展した。こうした状況下、リストによって構築された歴史主義的な経済学は急速に支持者を獲得していくことになり、次世代のB・ヒルデブラント、W・ロッシャー、K・クニースらを中心に経済学における「歴史学派」(歴史学派経済学)が形成されることとなった。学派成立の背景には、政治経済状況の変化に加え、経済学専門雑誌の創刊、経済史資料の蒐集・編纂・刊行など大学を中心とする経済学アカデミズムの整備・興隆があった。
もともとドイツ古典派から出発したロッシャーらは急速にその影響から脱し、ドイツ的方法による、過去の伝統と結びついた資本主義の発展を追求して、国民経済を科学的に把握するための「歴史的方法」を探求し独自の歴史的発展段階論・歴史方法論を築き上げた。しかし、「旧歴史学派」(Ältere Historische Schule)と称されるこの世代においては、営為の中心は歴史理論の探究にあり、その理論が具体的な歴史研究に応用されるにはいたらなかった。同時に彼らは、リストと同様ドイツの政治的・経済的統一を支持するとともに、発展途上のドイツ産業資本を育成するための保護貿易政策を主張し、海運商などの特権商人を支持基盤とする「ドイツ・マンチェスター派」の自由貿易論と激しく対立した。
参照元:Wikipedia「ドイツ歴史学派」